2007/03/20

25歳にして始めてまじめに孫子の兵法を読む....

25歳にして始めてまじめに孫子の兵法を読む....

とりあえず昨日孫子を軽率に引用をした反省から、孫子の兵法を読んでみた。
とはいっても時間がなかったので、ご飯を食べながら
総説と戦術原論のはじめまでをちょろっと読んだだけだ。

読みながら、フーン、ほー、ナルホドネー
と思いながら読みふけっていたが、
じゃあ理解できたのか?と言われると声を大きくしてNO!である。

書いてあることの意味がわからなかったわけではない、
わかるはずがないのだ。

書いてある意味がわかるのに、内容がわからないのは莫迦なのか?
コレも声を大きくしてYES!だ。

古典の名文や名句と言われるテクストを読むときに私が気をつけることがある。
それは、
「私なんかにこの名文を理解できるはずがない!」
というスタンスを保つことである。

これは決して自分を卑下しているわけではない、
テクストに対する曲解を防ぐための自分への予防線なのだ。


私が見ている名文テクストは古くから慣れ親しまれてきた賢者の理である。

慣れ親しまれてきたからには、それは理が素晴らしい以上に
常人に理解しやすいテクストであったに違いない。

だが待ってほしい。
賢者の理である。その理が常人に簡単に理解できるだろうか?
答えはNOであると言いたい。

では、テクストの内容は嘘っぱちなのか?

これもNOだろう。

じゃあなんなのだ?
私が思うに、賢者の理の一部を端的に常人に分かりやすく説明したものであろう。
つまり、その内容自体に嘘はないが、それが全てではないということだ。

仏法の禅には、「不立文字」という言葉がある。
簡単に説明してしまえば、仏法の奥義である悟りは言葉じゃ説明できない。
といった意味である。
(言葉にしてしまえば嘘になるとも言う。)

賢者の理も同じようなものではなかろうか?
彼の中では、「理」として存在したものでも、
文字にすればそれは違ったものになってしまう。

なので、名文テクストは「賢者の理」そのものではない。
だが、一部ではあるかもしれない。


さて、ここで一息ついて
今まで私が言ってきた内容を覆す。
それは「賢者の理を常人に理解できるレベルまで噛み砕けるものが賢者である」

私が昔感動した数学の証明に
「ユークリッドの無限に続く素数への証明」 といったものがある。
これは初等数学さえ抑えていれば、
素数は無限に続くか否かをスっと理解できるといった内容だ。

常人には理解し難い素数の無限性を、あっさりと理解させることができるユークリッドはまさに賢者と呼ぶに相応しい。

そういう観点から見ると、
名文が名文たる所以は常人に理解できるほど噛み砕かれた賢者の理として見えてくる。

そうなれば、名文は読んでそのままの意味で解釈すればいいだけになる。


さて、ここで問題である。
孫子は戦術・戦略において、つまり軍師として賢者であったか否か?
答えはYES.それは疑いようが無い。

では、孫子は文章、つまり物書きとして賢者であったか否か?
答えは不明、それはわからない。

文章自体が素晴らしく見えても、
孫子が残した兵法に、もし
兵法には書かれず彼が言い残したことが残っていたり、 もしくは誰かに曲解される可能性がある文章を残していること。
上記のような点があれば、文才は凡百であったと思われる。
(特に前者は孫子自身にしかわからない)

そして私は、兵法の総論を読んだ時点で
私と見解が違う引用をしている文章に思い立った。

私がより理に近いのか、それとも相手が近いのか。
それはどうでもいいことだ。
どちらかが曲解しているという事実は変わらない。

ならば、この文章は軍師としては稀代の天才が書いた
凡百な表現の文章としては読むべきかもしれない。
気をつけて、丹念に消化しないと痛い目を見るかもしれないのだ。

そんな風に定食屋で晩飯のから揚げ定食を食べながら考えている私がいた。

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